tortillaの日記

文章を書くのは日々のできごとの整理。

ネット上での発言

ネット上での発言についてたまに考えることがあるけれど、この記事読んでなんだかすっきりした。

ネットで自分の言葉を発するようになったのは中学生の頃で、当時発見した剣道愛好家の掲示板サイトみたいなところだ。そこで知り合った人とメールのやり取りまではしたことあるけれど、実際に会ったことはない。合同稽古とか興味あったけれど、自分が弱小だったので行かずじまいだった。
それから発言からはしばらく離れて、大学の初めにmixiを始めた。日記をよく書いていたけれど、マイミクが増えるにつれこの人には見られたくないなとかどんな人からあしあとがついてるのかなとか結構気になっていた。そしてマイミクからは見られたくない、でも誰かに見てほしいなと書き始めたのがはてなダイアリー。先輩に紹介されて何気なく始めたものの、読書の記録を書いたり、愚痴を書いたり、希望を書いたり、まぁ今読み返すと恥ずかしくなるようなものばかり(笑)
留学を機にフェイスブックをはじめた。周りの人が徐々にmixiからフェイスブックに移行していった頃だったと思う。mixiは実名じゃないから怖くないとか言われていたのにフェイスブックは実名が原則でプロフィール写真には自分の顔を出している人も多かった。時代って流れてるんだな。その時つくづく感じたものだ。という私もフェイスブックの利用に抵抗はなく、いろいろな写真や思いをのせた。今もそれは同じだ。私は閉鎖的に使っていて、友達以外に公開している情報はあまりない。

それにひきかえ、インスタグラムやはてなブログは多くの人に公開している。インスタは自分が撮った写真に興味がある人と交流できればいいと思っている。ブログは自己満足手的なわけのわからない文章を書くのではなく、あとから読み返したときにわかりやすい文章を書きたいなと思って、ある程度は読み手を意識して書いている。

自分のノートに文章を書くのとインターネット上に文章を書くのの決定的な違いはノートは自分のものであるのに対し、ネットはみんなのものであるということだ。見られたくない人に見られても、ノートなら盗み見とかプライバシーがどうだ言えるけれど、ネット上の文章はそんなことは言えない。誰が見ても自由なのだ。
だから、冒頭の記事の中のお母さんは何一つ悪いことはしていないし、母親の行動に対して子どもが不快な思いをしたとしても、子どものネットに対する認識が甘かっただけだと思う。

暮れに友達が遊びに来た時にこのブログについての話題が出た。自分からブログの存在を積極的に伝えたことがない人からの初めての指摘だったので、ちょっと驚いた(笑)でも、インスタにリンクを張ったのも、自分の身近なひとにも読んでほしいなと思ったのがきっかけだったので、よかったなと思っている。

毎回文章の終わり方に苦労しているのだけれど、この記事で言いたいことはネットの世界は大海と似ていて、存在を主張しなければかき消されてしまうけれど、その存在を見つける自由は誰でも持っているということだ。