tortillaの日記

文章を書くのは日々のできごとの整理。

縁と緣份

先日、義母と話していたときのこと。
その前の日、夫とひどいけんかをして、それが義母の耳に入ったらしい。朝の慌ただしい時間が終わって義母と娘と私と3人のゆったりとした時間が始まった。「あなたは何がストレスなの?私のことお母さん、ダメだったら友だちだと思って、なんでも話してちょうだい。」と言われた。(私が元気ないときはいつもそう言ってくれる)
今の生活でこれといった具体的なストレスはない。でも、日本の家族と過ごす時間と比べるとこの家にいるのは緊張するというか、自分で家族と距離をとってしまっている。結婚相手の家族に入るということはこういうことだろうと思っているけれど、これは時間が解決してくれるのかもしれないし、永遠にそうなのかもしれない。
「男性が一番嫌いなのは、女性がイライラしていることなの。だから、ずっとイライラしていれば、関係はどんどん悪くなるのよ。あなたはあなたのままでいいのよ。自分にストレスを与えることないわ。あなたたちはまだ先が長いんだから、こんなにしょっちゅうけんかしてどうするの?緣份就會越來越少。(「緣份」がどんどん少なくなるよ)」
「そうですよね…。」
(心の中…。)
「「緣份」が減るってどういうこっちゃ?縁が少なくなる?友だちが減る?いやいやそういうことじゃない。きっと関係が希薄になるってことなんだろうな。」

自分で調べたわけじゃないので、確証はないけれど、中国語の中で「縁份」というのは増えたり減ったりするものみたいだ。夫も「我們的緣份到這裡吧(俺たちの「緣份」はここまでだね)」という言い方をしてたのも見ると、「緣份」というのは量的なものなのだと思う。

私は「縁」というのは糸のようなものだと思っている。だから、それがその人と繋がっていれば、出会い、一緒の時間をともにするし、それが繋がっていなければ、出会うこともともに時間を過ごすこともないと思う。「縁がなかった」というのはそういう状態だろう。そして、もし一緒にいられなくなるのなら「縁を切る」とか「縁が切れた」と表現する。それは量的なものではなく、「有る」か「無い」と言った対極的なものなのだと思う。

以前、義父に「妳們本來離那麼遠,可是妳來這邊,妳們真的有緣份耶!(君たちはもともとあんなに離れてたのに、君はここにきた。本当に縁があるね)」と言われたことがある。その時私は「運命の赤い糸がこんな遠くまで繋がっていたのか…。」と理解したけれど、もしかしたら、彼の中では私と夫の間に「緣份」というものが、雪のようにたくさん積もっていたことを想像していたのかもしれない。