tortillaの日記

文章を書くのは日々のできごとの整理。

妊娠発覚~流産①

ようやく整理がついて来たところなので、書き留めておく。こうして整理しておかないとずっともやもやが残って、自分にとってもよくないと思うので、書くことにした。

昨年の11月に結婚披露宴をしてから、ほぼ避妊せずにいた。そして、今年の3月末に妊娠したことがわかった。台湾では検査薬を買うのと病院へかかるのがほぼ同じ値段(保険がきくので安い!)なのと、婦人科の病院に行くことにほぼ抵抗がないこととで、病院で検査をしてもらった。その時は尿検査で陽性と出ただけでエコーでは何も見えなかった。夫はとても喜んでくれたし、私も嬉しかった。過去の中絶のことも思い出し、今度授かった命は大切にしようと思った。と同時にその選択をした過去の自分は常軌を逸していた、と改めて感じ、そこから回復できたことの嬉しさとそれを支えてくれた家族に感謝の気持ちが湧いた。

時が経つにつれ、日中の眠気が強くなり、疲れやすくなった。疲れやすいのは今までもあったことだし、ちょっと我慢すれば慣れるだろうと思っていた。加えて、食欲もなくなってきた。食べ物を見ても、全く食べたくならない(特に吐きたくもならなかった)。特に油を使った料理と肉を使った料理が食べられなってきた。
義母も私が妊娠したことを喜んでくれて、妊婦にいいと台湾で言われている、シラス、鶏のスープ、赤い葉の野菜(日本語での名前がわからない)など私に合わせて色々な食材を料理してくれた。初めの1週間くらいは喜んで食べたけれど、それがずっと続いたのと食欲がなくなってきたのとで食べるのが辛くなってきた。毎食、「これは妊婦にいいからたくさん食べなさい」とか「子どもたちの母親(夫の前妻)は○○を食べて、元気で肌のきれいな子どもを産んだんだから、あなたもたくさん食べなさい」とか言われたが、食欲がないので義母の善意が嬉しく受け取れないこと、毎日のように前妻のことを聞かされるのも辛かった。自分自身初めてのことで、何が何だかわからず、どこまで手を抜いてもいいのかもわからないので、全くおいしいと感じなくても、においが辛く感じられても、義母に言われるがまま、必死に口の中に入れて、食べた。それをしなかったことで、お腹の子に何かトラブルが起きるのが怖かった。

続く。

特別お題 私のふるさと

私のふるさとはどこだろう?というテーマは小さいころからよく考えていたような気がする。友だちには田舎があって、そこにはおじいちゃんおばあちゃんが住んでいるらしいけど、私には田舎がなくて、おじいちゃんが眠っているお墓と親戚たちが長野の山にいる。そこが私のふるさとか、といえばそうじゃないと思う。そこはおじいちゃんおばあちゃんのふるさとだ。

もう少し大きくなって、自分のふるさとは生まれたところかな、と思うようになった。だいぶ前にも書いたけれど、小学生のときに祖母が住んでいた埼玉に引っ越してきた。なんとなく馴染めなくて、それまで住んでいた神奈川の海辺に帰りたいとずっと思っていた。そこがふるさとか?と考えると、そこも違うような気がした。また海辺に戻っても、住んでいたアパートは小綺麗なマンションに変わっていたし、親戚もいない。ただ、そこに住んでいたという事実と思い出があるだけだ。ふるさとじゃない。

前に住んでいたところは美しい - tortillaの日記

そんな思いは埼玉に住んでいる時間が経つにつれ、高校に入り、環境が気に入った頃には薄らいできて、やがて埼玉が私のふるさとだ、と思うようになった。今では、出身はどこかと聞かれれば、「埼玉です(生まれたのは神奈川の海辺だけどね、と思いながら)」と答えている。

生まれてから10年弱を神奈川の海辺で過ごし、その後15年ちょい埼玉で過ごし、20代半ばで台湾の台中にやってきた。江ノ島のあたりに戻りたいという夢もあるけれど、台中で過ごす時間がさらに長くなるのは間違いないだろう。

夫の先祖は何代も前から台中に住んでいるそうなので、彼に聞けば「自分は生粋の台中人だ」と答える。それと比べると、「はて、私は?」振り出しに戻ってしまう。「父方の祖父母は長野の山の出身だから、ルーツは長野?(何代前から長野にいたのか定かでもない)でも生まれたのは神奈川?あれ?でも埼玉は?」

ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
そして悲しく うたふもの
よしやうらぶれて 異土の乞食と なるとても
帰るところに あるまじや
ひとり都の ゆふぐれに ふるさとおもひ 涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこに かへらばや
遠きみやこに かへらばや

室生犀星 小景異情

うーん…私のふるさとはやっぱり、埼玉だ。

https://www.satofull.jp

月見団子

先日、以前の同僚が台中に遊びに来た。私が台中に来た1週間後くらいに彼女もやって来て以来の付き合いだ。同僚として一緒に働いたのは1年ぐらいで、その後彼女は台湾のほかの地域で働き、数年後に帰国したけれど、今でも仲良くしている。

台湾1年目の中秋節(十五夜)に私たちともう1人、中国語教師として働いていた同僚と3人で月見団子を作ることにした。団子の粉だかきな粉だかが見つからず、日系スーパーに買いに行った。日本で2、300円で売っていそうなものが、2、300台湾ドル(約3.5倍くらいの値段)で売っている高級…というよりぼったくりに近いようなスーパーに初めて入ったのもその時だった。団子作りをしてから、夜は都合のいい他の同僚の先生と一緒にバーベキューをした。こうして台湾1年目の中秋節は日本と台湾の中秋を味わった。

それをきっかけにライングループを作って以来、日本語や中国語について質問したり、面白いもの発見したら報告したり、ちょくちょく連絡をとっている、気の置けない仲間だ。私と中国語教師をしている彼女は今も台中で暮らしているので、時々遊びに来てくれる。時間がとれるときの定番はカラオケだ。中国語でも日本語でも何語でも好きな歌を好きなだけ歌う。ここ数年で私が歌う歌はほとんど変わってないけれど、そんなのは御構い無しだと思っている。

月見団子を一緒に作っていたときは毎年この行事ができるような気がしていたが、いろいろ状況が変わり(主に自分か…)結局まだ2回目の月見団子作りはしていない。日本に帰った彼女は来年、他の国へ日本語教師として旅立っていく。台中の彼女もいろいろやりたいことがたくさんあるようだ。2人の活躍ぶりを見ていると、私はこの数年何していたんだろう?これから何ができるんだろう?というやるせなさに襲われることがある。そんなときはなんとか自分ができるようになったこと、成長しただろうことを、どんなに小さいことでも頭から絞り出す。

歩む道は月見団子から離れて行ったとしても、彼女たちと会えたときは昔のように遊びたいし、会えないときはラインしてみたり、ふと思い出して応援していたい、と思っている。